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催行一時停止のお知らせ

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、「駅からハイキング」の以下のコースは、催行一時停止とさせていただきます。


真鶴駅コース

源頼朝の歴史を巡る(石橋山合戦敗走から鎌倉幕府樹立に向けた船出)

中止期間:1月5日(火)〜2月7日(日)

ようこそ駅からウォーキング「源頼朝の歴史を巡る」へ

今日はワシが真鶴町に残る源頼朝ゆかりのポイントを案内して進ぜよう。 頼朝については皆もよく知っておいでと思うが、参考までに簡単にまとめておくので参考にしてほしいものじゃ。

皆もよく知っておいでのように源頼朝(みなもと の よりとも)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、清和源氏の流れをくむ源義朝の三男として生まれ、父の義朝が平治の乱(1159年)で敗れると嫡男の頼朝(当時13歳)は伊豆国へ流されたのじゃ。

治承4年(1180年)に都で平家に反旗を翻した以仁王の令旨を受けると、妻政子の父親の北条時政やこの土肥郷(湯河原、真鶴一帯)の武将土肥実平などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げおった。8月17日に伊豆国目代であった山木兼隆の館を攻め戦いの火ぶたを切ると、8月23日には石橋山に300騎で陣を構え平家方の大庭景親勢3000騎との戦いとなった。多勢に無勢、頼みにしていた三浦一族が大雨のために酒匂川で足止めされていたこともあり頼朝軍は敗走に移り、逃げ回る頼朝たちは辛くも土肥の椙山に逃げ込んで、山中で激しく抵抗したんじゃ。頼朝が倒れた木の上に立っていた所に何人かの味方が追い付いてきたが、土肥実平が大人数では隠れきれない、頼朝だけなら隠しおおせると言って分散することになったわけじゃ。

大庭軍は山中をくまなく捜索したが、その時大庭軍にいた梶原景時という武士が頼朝の居場所を見つけるが情をもってこれを隠し、「この山に人跡なく、向こうの山が怪しい」と景親らを導き頼朝の命を救ったといわれておる。土肥(現在の湯河原町)の椙山のしとどの窟がこのエピソードにまつわる伝説の地として伝わっておるが、ここ真鶴町の真鶴漁港にもしとどの窟が存在しておるのじゃ。

27日には頼朝と別れた北条時政と義時、岡崎義実らは土肥郷の岩浦から船に乗り込み安房国を目指して船出し、海上で三浦の者たちと出会い心配事などを話し合ったということじゃ。翌28日には頼朝は土肥実平が土肥の住人である貞恒に命じて準備させた小舟に乗って土肥の真鶴崎から船に乗り安房国に向かったのじゃが、実平は息子の土肥遠平を使者として政子のもとに使わして頼朝の状況を伝えさせたそうじゃ。

九死に一生を得た頼朝は勢いを取り戻し、その後鎌倉を本拠として関東を制圧し、弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった弟義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼし、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられたのは皆もよく知っている通りじゃ。

★この記述は主に「吾妻鏡」によりましたが、そのほかにも諸説ある旨をお断り申し上げます。

石工先祖の碑

ここに石工先祖の碑が建てられておる。ここまで歩いてきた道すがらで皆はたくさんの石垣や石の建造物に気が付かれたかな。そう真鶴は石の町、真鶴町のほとんどを占める溶岩(岩溶岩、白磯溶岩、本小松溶岩、真鶴溶岩)からは良質な石材が切り出されるのじゃ。

今から約1200年前の奈良時代の終わりには岐阜県養老郡時村(現大垣市)の龍渕寺で相州産小松石の墓石が発見され、科学的調査の結果確証がえられておる。石材産業として発展してきたのは平安時代末期から鎌倉時代で、頼朝が鎌倉に幕府を開くと鎌倉の都市建設の他、寺や城の建造のために 耐久性・耐火性に優れた本小松石が使用されるようになったのじゃ。

鎌倉市内にある頼朝の墓をはじめ、北条一族の墓や寺社の礎石などにも小松石が多く使われており、鎌倉時代に東国の貿易の拠点として開発された和賀江島(日本最古の築港遺跡)の築港にも小松石が使われておったんじゃよ。その後も北条氏による小田原城築城、江戸時代には江戸城の築城、のち明治以後も真鶴の石材業は繁栄をつづけ大正天皇墓稜、昭和天皇武蔵野稜の奉建にまで及んだのじゃ。

この石工先祖の碑は平安時代末、真鶴で石材業を始めた土屋格衛と、江戸城を築くための採石にあたった黒田長政配下の七人の石工たちの業績をたたえた碑で、ワシの住む真鶴町は、こうした人々の開発の努力を受け継いで、いまなお、全国有数の石材産地としての伝統を誇っておるのじゃよ。

兒子(ちご)神社

鬱蒼とした木立の中、パワースポット的な雰囲気の中に兒子神社はたたずんでおる。本殿を正面に見て左側に兒子神社の由緒を記した石碑が建っておるので読んでみてほしい。そこには延喜年間(17世紀)に創立され、惟任親王とその御子神を祀っておると書かれている。頼朝とはどんな関係のある神社なのだ?

源平盛衰記によると、治承4年(1180年)8月28日、土肥実平の先導で岩海岸にたどり着いた源頼朝一行が安房へ向けて船出しようとしたときのこと、実平の子、遠平が「子の万寿に会ってから」と言い出した。万寿の母は、頼朝に敵対した伊東祐親の娘、内通を疑った実平は、遠平を下船させたのだという。その後、遠平は和田義盛の用意した船で頼朝一行を追うが、子の万寿には会う事はできなかった。

ここからがワシも聞いておる伝承なのじゃが、遠平の船が出た後に駆けつけた万寿は、父方は源氏に、母方は平氏に別れてしまったことを嘆き、海に身を投げたのだという。それを憐れんだ村人は万寿を兒子神社に祀ったのだと伝えられておるのじゃ。頼朝の船出した岩浦を見下ろす兒子神社、いかがじゃったかな。

源頼朝船出の浜、頼朝開帆處(かいはんしょ)の碑

さて、やっと岩海岸にたどり着いたかな。坂を上る町道1号線と岩漁港に進む道との交差点に「源頼朝船出の浜」の案内板と「頼朝開帆處(かいはんしょ)」の碑を見ることができるのじゃ。もともと頼朝開帆處の碑は別の場所に設置されていたものが移設されたもの。

治承4年(1180年)8月の石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、山中に潜むなどして討手の追撃を逃れ、8月28日真鶴崎(現 神奈川県足柄下郡真鶴町岩)から船に乗り、29日安房国平北郡猟島(現 千葉県安房郡鋸南町竜島)に到着したんじゃ。

この岩の浜から房州(千葉県)に向かって船出し、虎口を脱したと伝えられておる。海岸から真鶴ブルーラインの橋の下を見ると晴れている日には三浦半島が一望でき、その向こうに房総半島があるのじゃ。標高の高いところから眺望の効く日に見ると三浦半島の向こう側や三浦半島の先端のさらに南に房総半島がはっきりと見えるのじゃが、戦に敗れた頼朝がどのような思いで眺めておったのか、ワシも頼朝の隣で眺めている気分になっとるのじゃ。

それぞれの石碑にはQRコードが設置されているので、スマホをお持ちの方はちょっとのぞいて見てはいかがかな。

頼朝開帆處の碑の塩谷温(しおのや おん)博士(漢学者)の漢文は難読だが、そこには「誓って父の讎(あだ)を復さんと義兵を挙げ石橋山に上(のぼ)りて輸贏(ゆえい)を決す 佐公(さこう)昔を維(つな)ぐ開帆の処 謡曲長く七騎の名を伝う」と記されているのじゃよ。

謡坂

登り坂はちょっときつかったじゃろ。

「謡坂」については『源平盛衰記』が詳しいのじゃが、伝えられる事実や見解がいろいろとあって異論もあるところじゃ。ワシは歴史の醍醐味だと思って味わっておるがのう。

石碑は二つあり、一つは「謡坂」という案内板、もう一つは「謡坂之記」じゃ。謡坂之記は、この地に別荘を持っていた高井徳造氏が謡坂の由来を知りそれを顕彰するために昭和9年1月に建てた石碑で、土肥実平が頼朝と逃げている途中で自分の館が敵勢に焼かれるのを見て「あの光は、我が君や我々の未来を照らす光だ。」と謡い舞ったという『源平盛衰記』にちなむ話が記されておるのじゃ。頼朝もその舞いでさぞや力づけられたのであろうな。

町民センター

町民センターの正面の階段を登ると、入口の前に何やら古い石碑がおいてある。町内どこに行っても石碑だらけじゃが、これも長い石の歴史を持つ真鶴ならではなんじゃよ。

鵐窟縁起(しとどのいわやえんぎ)の碑は正保2年(1645年)に当時の名主五味伊右衛門の依頼で陰山道人が書にした頼朝と鵐窟の由緒を刻んだ石碑で、その上に説明のパネルが掲示してあるので一読してもらいたい。ワシも先日あらためて読み直してみたが難解ながらも壮大なロマンを感じるのう。また後に鵐窟でも同じ石碑が見られるので現地で味わってみて欲しい。

風外堂

港までのウォーキング、ちょっと疲れたかのう。まだまだ先は長いのでワシも忘れずに水分の補給するつもりじゃ。ここは風外慧薫(ふうがいえくん)の天神堂(風外堂)じゃ。風外蝸室という扁額の掛かった建物への階段を登り右側に回り込むと天神石宮と風外蝸室記念碑を見ることができるのじゃ。

風外道人は江戸時代の初期に小田原や真鶴に住んでいた曹洞宗の有名な禅僧で、名は慧薫といい永禄11年(1568年)群馬県松井田町に生まれたのじゃ。50歳を過ぎてから、南足柄の大雄山最乗寺、小田原市の成願寺、寺を捨て曽我の山中での穴居生活に入った後、寛永4年(1627年)に真鶴へやってきたのじゃ。慶安4年(1651年)には小田原藩主稲葉正則に招かれたがその対応に不快感を持ち面会せずに辞去、そのすぐ後に真鶴を出て承応3年(1654)頃に遠江石岡村で村人に穴を掘らせ自ら入り、お経を唱えながら入寂したという。遺墨が多数あり、書、絵画は国宝級と讃する者もあるほどじゃ。ただ、子供たちに絵をねだられると達磨や布袋の絵をかき与えたが、金持ちや権力者には求められても応じなかったといわれる奇僧だったそうじゃよ。だから真鶴で生きているための面倒をみたのが当時の村の有力者五味伊右衛門だったそうじゃ。

源頼朝を助けた中の一人がやはり五味(真鶴の三苗字の内のひとつ)、房州への脱出を図った頼朝を助けたといわれている岩の漁民達同様ピンチに陥った者を救うという真鶴気質があるのじゃろうかのう。

鵐窟(しとどのいわや)

港から歩いてきた道じゃが、今はこんなに立派な県道になっているが、頼朝が隠れた頃には鵐窟は海に面した海食洞だったんじゃよ。ワシもいつも鵐窟のパネルの大正時代の写真を見るが、ここに隠れたら見つからないなと思っておるのじゃ。崖にある鵐窟(しとどのいわや)跡は、源頼朝が治承4年8月(1180年)石橋山の戦いに敗れたとき、この地にあった岩屋に一時かくれて難をのがれたのじゃ。その時、大庭景親の追手があやしんで中をのぞくと「シトド(ほおじろ)」といわれる鳥が急にが飛び出たので人影はないものと立ち去った。ということから鵐窟といわれ、かつては高さ2メートル深さ10メートル以上の大きさがあったのじゃ。何度かの地震で崩れたり、第2次世界大戦中の採石によって、今は僅かに痕跡をとどめるだけなんじゃ。町民センターで見た鵐窟縁起の碑と同じものが置かれているのに気が付かれたかのう。

また、設置されているパネルには真鶴の三名字の由来が説明されておる。真鶴に古くからある名字として「青木」「五味(ごみ)」「御守(おんもり)」の3つがあるのじゃが、頼朝がしとどの窟に身を隠した際に手助けをした功として、手助けの内容にちなんだ姓を与えたという言い伝えがあるのじゃ。木の枝で入り口を隠した者には「青木」、食料の手配をした者には五つの味わいを意味する「五味」、追手から頼朝を守るための見張り役をした者に「御守」の三名字で、町内の看板や表札などに気を付けていればあちこちで見かけたはずじゃ。ワシの苗字は秘密じゃよ。

貴船神社

貴船神社は、平安時代の889年(寛平元年)に創建されたと伝えられている古社でのう、今からおよそ1200年ほど昔の夏、真鶴岬の笠島(現在の三ツ石)の沖合に、夜ごと不思議な光が現れ、海面を煌々と照らしていたそうじゃ。ある日「平井の翁」という人が磯辺に出て遥か沖を見渡したところ、光を背にした一隻の楼船が波間に浮かび海岸に近づいてくるのでな、船内を調べてみると、そこには木像十体余りと、口伝によれば、「この神をお祀りすれば村の発展がある」と記された書状があったということじゃ。その夜、神は翁の夢に現れ、自らが大国主神である事を告げたので、翁は村人と力を合わせて社を建て、村の鎮守の神としてお祀りしたのが、現在の貴船神社の起源と伝えられておるのじゃ。鳥居から本殿までの石段は108段で、清めの石段と呼ばれているのじゃよ。ワシのような年寄りには少々きついがな。

毎年7月27日、28日に行われる貴船まつりは国指定重要無形民俗文化財でな、山上の社殿より、神輿が海上を渡御し町内にお出ましになるという形式は、貴船まつりの特色なのじゃ。その他にも神社には多くの見どころがあるが、鳥居をくぐって階段をひとつのぼった右側にある大きな石が「頼朝の腰掛石」じゃ。石橋山合戦に敗れた源頼朝が「鵐窟」に身を潜め、真鶴の岩海岸より船出した故事は有名であるが、敵より敗走する際に休憩したと伝えられる岩が「頼朝の腰掛石」として奉納されたものなのじゃ。

身体の芯まで疲れ切った頼朝がこの石に腰掛けて再起を期そうとしていたことに思いを馳せてみでもらいたいもんじゃ。

さて、階段を登って見学をしたら社殿に向かって右側の参道から道路に出ておくれ。

荒井城址公園

真鶴半島の尾根を行く長い道はいかがだったかな。道の右側は相模湾、小田原から西湘、湘南の街並みと、江ノ島、そして三浦半島、その向こうには房総半島が一望できる(はずじゃ、晴れていればの)。道の左側には、湯河原の街並み、熱海の賑わい、網代、宇佐美と伊豆半島の東海岸が見えたじゃろ。小室山と大室山、天城山も見えるはずじゃ。海に浮かぶ初島、伊豆大島、利島、新島、運が良ければ神津島も見えるんじゃ。 荒井城址公園の山側の入口へ向かう坂道は箱根の山々から真鶴の街並み、相模湾から三浦半島が見える絶景ポイントじゃよ。東海道線の線路が模型のように見え、その向こうには本小松石の石切場の岩肌も見えているじゃろ。

さて荒井城址公園は、後三年の役(1083年)で、源義家(頼朝の高祖父)につき活躍した荒井実継(土肥実平の祖父が実継という説「城願寺縁起」がある)が居城を築いた地で、その後鎌倉幕府の時代には、荒井氏に代わり源頼朝に仕えた湯河原の有力御家人である土肥氏の持ち城となり、後(小田原)北条氏の時代には、のろし台が置かれた歴史にゆかりある地に整備された都市公園じゃ。

頼朝の高祖父である義家を助けた荒井実継の居館が真鶴にあり、その実継の孫であるという説のある土肥実平がこれまた命がけで頼朝を助けたという因縁を感じるのはワシだけじゃろうか。

公園には春になると22本のシダレザクラが満開となり「しだれ桜の宴」というイベントも開催されるのじゃ。それ以外にもモクレン、ハクモクレン、石楠花、ユキヤナギ、ヤマボウシなど公園内は春の彩りに包まれ本当に見事じゃぞ。
さて、「源頼朝の歴史を巡る」JR真鶴駅の駅からハイキングはいかがじゃったかな。今から840年ほども前の壮大な物語のほんの一部じゃが、頼朝が石橋山の決戦で敗れ、箱根や湯河原の山中をさまよいながら敗走し、起死回生を誓って真鶴から房州に向けて船出をする、そんな歴史の香りを楽しんでいただけただろうかの。ワシの案内では足りないところもあったじゃろうが、是非また真鶴で再会したいもんじゃ。それじゃのう、元気で家路につくんじゃぞ。